本文へ移動

不確定性原理と保育

2022-09-09
少し前に読んだ本の中に「不確定性原理」というのが出てきて、少々興味を惹かれました。

ちなみに私は高校時代、主要科目は赤点でしたのでその程度の理解の仕方と思って話半分に聞いていただきたいのですが…、不確定性原理とは例えば水の温度を測ろうと温度計を差し込むと、その温度計が水の温度を多少なりとも変化させてしまう…。つまり客観的に観察しようとしても、その「観察する」という行為自体が、対象を変化させてしまい、観察しようとすればするほど「客観的かつ正確なデータは取れない」ということ(だったと思います)。

これ実は、「子どもを知ろうとする」時にも当てはまるのでは? 
 
つまり、親が、先生が、子ども理解しようと何か問いかけた時、その問い自体が子どもに影響を与えている、ということです。例えば今日、手製のバードコールで鳥を呼ぼうとしていた子に先生が「鳥さんに何って言ったの?」と聞いていました。もちろん、最初から心の中で「鳥に何か言って」いた子もあったと思いますが、聞かれたことで初めて「あ、鳥と話が出来るかも」と可能性が広がった子もあるかもしれません。「自分が鳥と話せるなら、何って伝えたいかな?」と自問した子もあるかもしれません。

また、以前年長の話し合いで、「生き物を殺して食べるのは平和じゃない」という発言があり、幾ターンの対話の後、「生き物を食べるのがいいか悪いかを、自分たちが決めたらかわいそう」と発言した子がありました。
この時も、この子の内面に、始めからこんな考えが宿っていた…ということではなく、その場のやり取りを通して(相手の言葉を聞き、自分の考えを話すうちに、その時の状況、文化、自分がどういった生活をし、改めて考えて見ると、対話してみると、今の自分が言えるのは…と)、その場でその考えが作られた、と思うのです。
 
このように人間は常に流転しています。しかもその流転の仕方は、私たちが思っている以上に日常的な事だと感じます。遊びの中で、モノとの対話・人との対話・出来事との対話の中で、瞬間瞬間に変化(成長)しています。その瞬間瞬間と対話しながら子どもを理解しようと努める大人もまた、やっぱり変化せずにはいられないと思うのです。

子どもの成長を見守る時、見守る側も成長している。これは物理学の見地からも言え…ないですかね。
TOPへ戻る