未だ知らない何かになる…という学び(2024年11月園だより)
2025-09-10
子どもと関わる仕事をして来て、子どものすばらしさを知る度に、ふと矛盾を感じることがあります。子どもはこんなにも素晴らしい。その素晴らしさは、学び、成長する過程が見せる輝きなのだと思います。しかし、その結果として成長してきたはずの自分という大人を振り返ってみると、目の前の子どもたちに比べ、ずいぶんつまらない人間になってしまったな…、と感じてしまいます。これはどうしたことだろう…と、今回考察してみました。
先月、「知らないこと」について園だよりで書かせていただいたように、子どもたちは未知を楽しみます。子どもたちは「知ってから」行うのではなく、「知る前に」行います。絵も、歌も、踊りも、製作も、劇遊びも。話すときも、また考える時も、どのようにそれを行うのかを知ることなく、知る前に行います。
例えばごっこ遊び。自分ではない何者かになり、まず遊び始め、対話をしながら、遊ぶことによってその世界を作っていきます。ごっこ遊びで自分が次に何を言うのかを子どもは「知って」いるわけではありません。それは相手との即興的なやり取りによって共同的に生み出されるもので、そこには新たなものを生み出していく面白さがあります。よく「表現」とは自分の内面にあるものを表す…と考えられますが、こう考えると、周囲との対話により、その相手との間に作り出されていくもの、という方が近いのかもしれません。
そして実は私たち大人も、無意識に子どもを「現在のその子ではない何者かになろうとしている者」として関わっています。
例えば、まだ「しゃべるという行為」があるということすら知らない乳児に対しても、まるで言葉が分かるかのように私たちは話しかけますね。私たちは「目の前の子どもそのもの」に関わっているつもりで、実は目の前の子が未だ踏み込んでいない領域にいるように、目の前の子がいずれこう成長していくであろう何者か…であるように関わっています。
先月のカレー屋さんの子たちは、カレー屋さんに「なる」ことで、未だ知らない社会に参加し、社会のルールを自分たちで考え、「知らないことってたくさんあるんだよ」という世界に自分たちで入り込む…、それが輝いて私たちには感じるのでしょう。
一方、様々な事を「知って」しまった大人たちは、それを知らなかった時のように考え行うことが出来なくなりました。本当はまだまだ知らないことだらけなのに、「どうすればよいか知っている」通りに行う、そこから離れられません。特に今はネットを検索すれば、YouTubeを見れば、なんでも知ったつもりになることができます。もう子どもたちのように「知らない」に踏み込み、留まることを楽しめない…、それが自分という大人をつまらない人間にしてしまっているのかもしれません。
先月、「知らないこと」について園だよりで書かせていただいたように、子どもたちは未知を楽しみます。子どもたちは「知ってから」行うのではなく、「知る前に」行います。絵も、歌も、踊りも、製作も、劇遊びも。話すときも、また考える時も、どのようにそれを行うのかを知ることなく、知る前に行います。
例えばごっこ遊び。自分ではない何者かになり、まず遊び始め、対話をしながら、遊ぶことによってその世界を作っていきます。ごっこ遊びで自分が次に何を言うのかを子どもは「知って」いるわけではありません。それは相手との即興的なやり取りによって共同的に生み出されるもので、そこには新たなものを生み出していく面白さがあります。よく「表現」とは自分の内面にあるものを表す…と考えられますが、こう考えると、周囲との対話により、その相手との間に作り出されていくもの、という方が近いのかもしれません。
そして実は私たち大人も、無意識に子どもを「現在のその子ではない何者かになろうとしている者」として関わっています。
例えば、まだ「しゃべるという行為」があるということすら知らない乳児に対しても、まるで言葉が分かるかのように私たちは話しかけますね。私たちは「目の前の子どもそのもの」に関わっているつもりで、実は目の前の子が未だ踏み込んでいない領域にいるように、目の前の子がいずれこう成長していくであろう何者か…であるように関わっています。
先月のカレー屋さんの子たちは、カレー屋さんに「なる」ことで、未だ知らない社会に参加し、社会のルールを自分たちで考え、「知らないことってたくさんあるんだよ」という世界に自分たちで入り込む…、それが輝いて私たちには感じるのでしょう。
一方、様々な事を「知って」しまった大人たちは、それを知らなかった時のように考え行うことが出来なくなりました。本当はまだまだ知らないことだらけなのに、「どうすればよいか知っている」通りに行う、そこから離れられません。特に今はネットを検索すれば、YouTubeを見れば、なんでも知ったつもりになることができます。もう子どもたちのように「知らない」に踏み込み、留まることを楽しめない…、それが自分という大人をつまらない人間にしてしまっているのかもしれません。

