子どもを通して世界と出会い直す
2024-11-14
生まれてから間もない子どもたちは、世界のいろんなモノやヒト、デキゴトと「初めて」出会っていきます。私たち大人にとって「これってなんだ?」と問うことすらしなくなったモノに、キラキラした目を向けて、「これなに?」「どうしてこうなるの?」とひっきりなしに問いかけてきます。そんな時、改めて聞かれることで(また、言葉が出なくても興味津々に眺めたり、手に取って見たり、時にはしゃぶって見たりする姿を見て)、「確かに、これって何だろう?」「どうしてこうなるんだろう?」と、私たち大人もそのものに「出会いなおす」ということがよくあります。
例えば、「風ってどこから来るの?」「波ってどうして『なみ』なの?」「トカゲにエサ(生きている虫)をあげるのは『いいこと』をしているの?」… こうした子どもの問いに、皆さんなら何と応えるでしょうか?
ホイットマンという詩人が、子どもが「草って何?」と聞いてきたとき、「私はその子以上に草が何なのか知っていない」、という気付きを詩に残しています。
また、レイチェル・カーソンという海洋学者は「知ることは、感じることの半分も重要ではない」と言っています。
もし子どもに「草って何?」「カエルって何?」と聞かれたら、僕はその草の名前を応えることはできるかもしれません。そして名前を知ることで、それが何か分かった…つもりになることもできます。でもその瞬間カエルと戯れている彼は、僕よりもずっとカエルを肌で感じているでしょうし、砂場で遊んでいる彼女たちは、僕よりもずっと「砂」を理解しているかもしれません。そんな彼・彼女たちに、「それは〇〇って名前のカエルだよ」と伝えることに、どれだけの意味があるのか?と疑問にも感じます。
デジタルの世界は、再生ボタンを押せば何度でも全く同じ映像を流すことが出来ます。
一方自然は、例えば何万年も美しい夕焼けを繰り返しますが、でも今日と全く同じ夕焼けは二度と見ることが出来ません。同じように子どもとの生活も、毎日が同じようでも「全く同じ」ということは二度と起こりません。
私たちは子どもを、そして子どもが見ているものを毎日見ることが出来るのに、本当にそのものを一度も見ていないのかもしれませんね。
せっかく子どもたちがもう一度出会わせてくれた、「見慣れた」と感じていた世界の一つ一つ。もう一度子どもと一緒にそのモノと出会い、「一緒に驚き」「一緒に不思議に思い」「一緒に『何だろう?』『どうしてだろう?』と考え」てみてはいかがでしょうか。
