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子どもにとってうれしい人

2022-07-08
友だちの靴をタライに集めて「足湯」?
子どもはいつでも、いかなる場面でも、「遊びによる探求」を発動します。生活は流れていて「〇時〇分から〇時〇分までは遊びの時間、△時△分からは生活の時間ですよ」というものではありません。子どもにとっては「生活」=「遊び」。大人にとってして欲しくないタイミング、して欲しくない内容に限って生き生きしてくる子どもたち。

こんな時、通りすがりの園長は気楽なもので、「おもしろいことしてるな~」で済むのですが、実際にクラスを切り盛りしている先生にとっては「今はそれはして欲しくないんだけど…!」と思うことはたくさんあるでしょうね。・・・これは家庭でも「あるある」なのでは?。
 
例えば、夜遅く帰った父さんが小学校の娘に「お、面白い絵を描いてるな~」と言ったとたん、「勉強もせずにずっと描いてるのよ!」と妻ににらまれる…(我が家のことですが…)。妻からしてみれば「叱るのは私ばっかりで、お父さんはいいとこどりばっかり」ですよね~。

もちろん、文化的に、マナー的に、注意しなければいけない場面もあり、身につけて欲しい習慣もあります。「ああ、面白そうなことしてるなぁ…、でも、ほっとくわけには…」という心の中の綱引き・葛藤を、お父さん・お母さん、園の先生方も抱えながら子どもと毎日接していますよね。

子どものすることには必ず意味があります。思わず「何してるの!」と言いたくなる瞬間、一呼吸おいて子どもが何にそんなに一所懸命になっているのか?何がそんなに面白いのか? に意識を向けてみてはどうでしょう(その後に改めて「何してるの!」となるかもしれませんが)。
 

『育ての心(上)』倉橋惣三著より
「子どもがいたずらしている。その一生懸命さに引きつけられて、止めるのを忘れている人。気が付いて止めてみたが、またすぐに始めた。そんなに面白いのか、なるほど、子どもとしてはさぞ面白かろうと、識らず識らず引きつけられて、ほほえみながら、叱るのをも忘れている人。
 実際的には直ぐに止めなければ困る。教育的には素より叱らなければためにならぬ。しかも、それよりも先ず、取り敢えず、子どもの今、その今の心もちに引きつけられる人である。
 それだけでは教育になるまい。しかし、教育の前に、まず子どもに引きつけられてこそ、子どもへ即くというものである。子どもにとってうれしい人とは、こういう先生をいうのであろう。側から見ていても嬉しい光景である。」
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